八王子市上壱分方町といえば「まんじゅうまつり」で有名なお諏訪様のそば。そこに「寿司富」、富さんの店がある。この富さん、市場職員にいちばん慕われている。ときどき富さんを真ん中にして魚のおろし方や仕込みを職員が習っている光景が見られる。そんな我らが兄貴分、富さんの話が面白い。
富さん、昭和17年新潟県生まれ。地元で修業して上京。都内を点々と渡りながらすし職人としての腕をみがいた。その大方の技術を教わったのも渡り職人からだったのだという。
そして昭和30年代の終わり頃、流れて八王子市南町の『鮨忠本店』に来たのだ。そこで出合ったのが横川町さん(『鮨忠第二支店』)。その『鮨忠本店』には当時、横川町さん、元本郷さん(『鮨忠 第三支店』)がいて3人ですしを握っていた。そして一度やめて立川のすし屋に移っていた。
「毎日毎日店は忙しくってな。そしたらよ、ある日親方が、あいつ戻ってきてくれないかって、言うわけよ。それでオレはヤツの居場所をたまたま知ってたんで、呼びにやらされたわけだ。そんでなヤツが勤めていた立川のすし屋にいってさ、外からのぞいたらヤツがなかで握っている。正面から行って店に戻ってきてくれとも言えねえから。店の外に呼び出して『おまえ帰ってこないか』っていたら『うんうん』って言ったんだよな」
横川町さんが当時を振り返る。
「昔の八王子は賑やかだったよ。夜になると芸者さんがいっぱいいてさ。オレも芸者さんとの慰安旅行に行ったことがあるんだよ。楽しかったな」
「すしってその頃、いくらだったの(並寿司で)」
「忘れたな。オレらの昼飯は150円だったな。これは自分で払うの」
「昔は賄いがなかったわけ」
「いやカレーなんて賄いでくったものさ。でもな、ご飯はお代わり自由だけど、カレーはお玉いっぱいだけって決まってたの。当時、横川町の奥さんが働いていて飯をもってきてくれるんだけどおかずが足りねーの」
この時代にはこんなことが普通であったんだという。
「そんなこんなでがんばって一日20本(2斗)握るのは大変だった。でも楽しかったね」
昭和30年代の終わりから40年代までの八王子は繊維機織りもので好景気に沸いていた。そんな時代だからすし屋は握れば売れるという、そんな状況であったという。今時のすし屋が炊く米は小さな店で1本(2升)、大きな店で5本(1斗)もたけば客の入りは上々だという。それを1斗、2斗のすし飯をたった3人の寿司職人で握るんだから、今では考えられないほど過酷な労働であったようだ。
「でも、あの頃は当たり前に思えたな」
これも横川町さん。
寿司富 東京都八王子市上壱分方町224-5
ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑へ
http://www.zukan-bouz.com/
寿司図鑑再開 後の記事 »
東京上の丸善の「チーかま」
はじめまして。
いつも拝見させていただいています。
市場寿司たかさんと寿司富さんが好きな
八王子在住のrainy。です。
自分とこであげた寿司富さんの記事に、
こちらのページへのリンクを貼らせていただいてもよろしいでしょうか?
突然で恐縮ですが、ご了承いただければ幸いです。
rainyさん、ブログ読ませていただきました。リンクは願ってもないことです。よろしくお願いします。