魚の選別を終えて、釣り宿・川岸屋の土間でお茶を飲む。
長閑な5月の朝であり、気温はすでに20度を超えていそうだ。ポカポカと暖かく眠くなってくる。
土間には大きなヘラブナ、ギンブナの魚拓があり、またブラックバス釣りの写真が飾っている。
「ウチは釣り宿だけん」
川岸屋は本来ヘラブナ釣りの貸し船、釣り宿であった。それがブラックバスに変わり、現在ではそのブラックバスもフナとともに激減。「まあ釣り宿もオレの代で終わりだな」という状況だという。
「それにね。昔はフナだって、コイだって、『はや(モツゴなど)』だってとれたらとれただけ売れた。それで稼げただよね。それが海の魚がここら辺にも入ってきてからだ。あんまし魚も売れなくなった」
「昔は川魚問屋が強かった、魚を買いたたいたりしたって聞きますね」
「そうだね。昔は問屋が大きかったな。今でもあるだよ、まだ問屋は」
そこに諸岡さんと同じく張り網を霞ヶ浦にもっている松田さんがやってきた来た。どうも漁の後の恒例のことらしい。諸岡さん、松田さんともに73歳。諸岡さんは漁と釣り宿を経営、田を持っているが貸しているのだという。松田さんは農業との兼業。戦前を知る世代であり、また戦前戦後の霞ヶ浦の変遷では生き証人とも言えそうな人たちである。
この霞ヶ浦一帯は戦前には土浦海軍航空隊、鹿島航空隊があり、湖には水上飛行機が浮かんでいたという。
「オレは、ときどきのせてもらってたんだ。水上飛行機だべ。近づいていくと乗せてくれっから」
松田さんは懐かしそうに語る。
「予科練ですね」
「違うだー。鹿島の方。鹿島と予科練は違うだね」
朝方、古渡あたりの市街地をクルマで回った話をする。
「あんだ。昔、この辺は蔵が並んでただね。大きいヤツが、今は1つだけ残ってるだが。そのころは“かわはぎ”って地名だったね。でも“かわはぎ”って追いはぎみたいで名前が悪いって変えたけんね」
霞ヶ浦は陸上交通の発達する以前には海上交通が盛んであった。とくに東京(江戸)と利根川、江戸川、隅田川と淡水域で繋がっていて、当時は高瀬舟の立ち寄る港はまことに賑やかであった。そして霞ヶ浦にも港がいくつもあり、旅館も料亭も遊郭もあった。そしてこのあたりは産物の集積場であったということなのだ。
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