市場人の歴史: 2006年8月アーカイブ

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 多摩地区のすし屋には何種類かの系統がある。その1が八王子「鮨忠」、「浜寿司」のように地元のすし屋ののれん分け、その2が八王子「寿司富」、八王子「誠寿し」のように都心のすし屋で修業したり、渡り職人(この系統の人たちには寿司職人としても達人と呼ばれる人が多い)から店を構えたもの。これに加えるに八王子でも土着の人たち、すなわち地の人たちの住む地域で店を構えたものと市街地に店を構えているすし屋でもかなり違いが出てくるのだという。「地」に店を構えているすし屋は当然寄り合いや祝儀不祝儀も多く、握りも八王子らしく甘いものなのだろうか、また出前が主体だろうから今イチ洗練されていないのかもしれない。でも実際はいかがなものだろう。常々、この「地」のすし屋を覗いて見たかったのだ。でもなかなか、その住宅地のすし屋に入るのは勇気がいる。

 そんなときに声をかけてくれたのが「誠寿し」さんである。「誠寿し」町田誠さんは上野の「花寿司」で修業した後に生まれ故郷川口すなわち「地」に店を構えている。だから、お客のほとんどが地元の人たちである。

 そんなことで秋山街道がいちばん渋滞する土曜日に川口に向かう。秋川街道は元本郷、中野、楢原ときて川口に来る。八王子から続く住宅地もここまで。その川口の入り口を秋川街道からひとつ奥まったところに「誠寿し」はある。住宅地のすし屋ということで民芸品などで田舎臭い造りかと思っていたら、とても落ち着きがある店構えである。その上、店内も清潔で居心地がいいのだ。

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「誠寿し」町田誠さんは奥さんともども待ち受けていてくれた。
 そこでいろいろ修業時代の事を聞いたり、寿司に関するこだわりなどを聞かせてもらった。そのどれもがなかなかに面白く、我がデータベースにも生かせるものばかり。
 そして実際に握ってもらったら、なかなか都心であっても恥ずかしくない洗練されたもの。なかでも穴子の握りは絶品である。煮穴子をかるく温めて、小振りな握りに。穴子は甘く香り立ち、口に入れるとホロリと崩れる。そこに甘味控えめのすし飯がくるのだが、これが絶妙だ。

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町田さんご夫婦自慢の信楽の器にのせて撮影してきた。

「誠寿し」さんの上野での修業時代のことから、生まれ故郷に帰りついてからのことなど、「市場人の歴史」で折々に寿司の基本知識として取り上げていきたいと思っている。またお近くに来られた方は「並1000円」からという手軽な値段なので「誠寿し」の江戸前握りをお試し願いたい。


誠寿し 東京都八王子市川口町1753-6  042-654-2355


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富さん、昔がたり

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 八王子市上壱分方町といえば「まんじゅうまつり」で有名なお諏訪様のそば。そこに「寿司富」、富さんの店がある。この富さん、市場職員にいちばん慕われている。ときどき富さんを真ん中にして魚のおろし方や仕込みを職員が習っている光景が見られる。そんな我らが兄貴分、富さんの話が面白い。

 富さん、昭和17年新潟県生まれ。地元で修業して上京。都内を点々と渡りながらすし職人としての腕をみがいた。その大方の技術を教わったのも渡り職人からだったのだという。
 そして昭和30年代の終わり頃、流れて八王子市南町の『鮨忠本店』に来たのだ。そこで出合ったのが横川町さん(『鮨忠第二支店』)。その『鮨忠本店』には当時、横川町さん、元本郷さん(『鮨忠 第三支店』)がいて3人ですしを握っていた。そして一度やめて立川のすし屋に移っていた。
「毎日毎日店は忙しくってな。そしたらよ、ある日親方が、あいつ戻ってきてくれないかって、言うわけよ。それでオレはヤツの居場所をたまたま知ってたんで、呼びにやらされたわけだ。そんでなヤツが勤めていた立川のすし屋にいってさ、外からのぞいたらヤツがなかで握っている。正面から行って店に戻ってきてくれとも言えねえから。店の外に呼び出して『おまえ帰ってこないか』っていたら『うんうん』って言ったんだよな」
 横川町さんが当時を振り返る。

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「昔の八王子は賑やかだったよ。夜になると芸者さんがいっぱいいてさ。オレも芸者さんとの慰安旅行に行ったことがあるんだよ。楽しかったな」
「すしってその頃、いくらだったの(並寿司で)」
「忘れたな。オレらの昼飯は150円だったな。これは自分で払うの」
「昔は賄いがなかったわけ」
「いやカレーなんて賄いでくったものさ。でもな、ご飯はお代わり自由だけど、カレーはお玉いっぱいだけって決まってたの。当時、横川町の奥さんが働いていて飯をもってきてくれるんだけどおかずが足りねーの」
 この時代にはこんなことが普通であったんだという。
「そんなこんなでがんばって一日20本(2斗)握るのは大変だった。でも楽しかったね」

 昭和30年代の終わりから40年代までの八王子は繊維機織りもので好景気に沸いていた。そんな時代だからすし屋は握れば売れるという、そんな状況であったという。今時のすし屋が炊く米は小さな店で1本(2升)、大きな店で5本(1斗)もたけば客の入りは上々だという。それを1斗、2斗のすし飯をたった3人の寿司職人で握るんだから、今では考えられないほど過酷な労働であったようだ。
「でも、あの頃は当たり前に思えたな」
 これも横川町さん。

寿司富 東京都八王子市上壱分方町224-5


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左から『鮨忠 第一元八支店』、『鮨忠第二支店』、『鮨忠 第三支店』さん。ボクは密かにお三方を『花の忠三トリオ』と呼んでいる

 八王子にあって『鮨忠』には支店が多いので営業する町の名前で呼ばれることが多い。『鮨忠第二支店』さんは「横川町」、『鮨忠 第三支店』さんは「元本郷」、『鮨忠 第一元八支店』さんは「元八王子」。以後、町の名でお話をすすめていく。
 このお三方のうち最年長なのが「横川町」さん、ひとつ年下が「元本郷」さん、「元八王子」さんはぐぐっと下がって60代である。この三方の凄いところは仕入れがまめであること、また煮いかなどの仕込みが未だに自宅でしっかりとされていること。またお三方とも現役であることなどである。

 そして今、このお三方にお聞きしているのが八王子での寿司屋の歴史である。
「横川町」さんは現役最年長、すし職人になった昭和25年は、まだ食料統制時代であった。このとき寿司を食べるには客は一合の米を持参、それに70円を加えて一人前のすしと交換していたのだ。そして昭和30年代の半ばまで、一人前の寿司は100円という時代が続いていた。このすしというのが今で言う並。今、八王子での並の値段が1000円から1600円なので、ちょうど10倍から15倍の価格となっているのだ。ちなみに長い間「上」とか「特上」なんてなかったそうでみな一様に「並」を食べていた時期の方が長かったわけだ。
 また八王子の市場も今は北野にあるが、昔は八王子駅に隣接していた。それが今の保健所のあるところに移転して、そして北野に移ってきているのだ。

 さて、折々にお聞きした『鮨忠話』、これまた折々に公開していきたい。


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