ぼうずコンニャクです。今日は雑用の場で急に目眩がして目の回りが熱くなり、しかも気分まで悪くなってパニック状態になってしまいました。これは年のせいというより肥満のせいかも。しかし若い仲間達の冷淡さには驚きました。わからないのでしょうね。
さて、私がお茶の水の初めて下りたのはちょうど30年前にことです。総武線が秋葉原から駿河台に結ぶ驚くほど高い鉄橋に入ると南に見えるのはニコライ堂ですね。これが非常に感激できる景色であって、これからこの街の鈍色の空の下、勤勉に寡黙に勉強をするのだと思ったもんです。結局勉強とは縁がなかったのですが。
さてお茶の水、小川町、神保町、などにラーメン屋あ増えたのはそんなに古いことではありません。だいたいラーメン専門店というのは本来なかったと思います。このラーメンを檜舞台にのせたのは『暮らしの手帖』の花森安治の札幌ラーメンからだと思います。これが確か1970年代。このマスコミでは異端者ながら、食にも生活にも革新的な存在がラーメンという「食の分野」を国民に再認識させたのです。
初めて、ぼうずコンニャクが降り立ったお茶の水界隈にはほとんどラーメン屋というのはなく、今の『伊峡』はあったろうか? また中央大学生協横の「ピカイチ(どんな文字で表記したか思い出せない)しかなかったのです。すなわちラーメンは大学生協かわずかなラーメン専門店、そして多くの中華料理屋(レバニラ炒めなどある)で食べていたんです。「餃子のおけい」なんてところのタンメンはうまかったですね。今は飯田橋で味わえるのだと思えます。
そして今あるお茶の水、神保町のラーメン屋のほとんどは新しい店ですね。しかもチェーン店が多い。その上、そんなにうまい店があるわけではないと思います。敢えて神保町名物の麺類としては揚子江飯店の冷やし中華の方がまだいいですね。
また藪そばはそんなに好きではないのですが須田町の松屋は好きですね。ここは神田連尺町という地名だったところで、となりの多町とともに戦争で焼けなかったところです。
永井龍男の『石版東京図絵』にも出てきますが戦前のこの界隈はまことに情緒あふれる街並みだったのです。
今ではお茶も水駅からはニコライ堂は見えない。まったく未来を見通せないバカな人たちが作った高すぎるしかも薄汚い建物に囲まれて、残念至極です。
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