漁師料理・郷土料理: 2008年11月アーカイブ

 さて『以ば昇』に戻る。
 タクシーはデパートなどを見ながら賑やかな大通りから路地に入る。
 周りは夜を思わせる飲食店が並んでいて、雑居ビルが林立する。
 そこ雑居ビルに挟まれるように古めかしい木造の店があって、これが『以ば昇』であった。
 暖簾の中がうかがい知れない。
 ひとりで入って大丈夫なのか心配になって、降りるときにタクシーの運転手さんに、「ひとりで入るの恐い感じですね」ときく。
「いやいや地元の人でも気軽に行く店ですから、大丈夫です。それより早う入らんと席がなくなります」
 このときまだ正午には間があった。

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 暖簾をくぐると右手に帳場というのか、人がいて、通路が奥に続く。
 その通路の右手に椅子席。
 いかにも「仲居(特にこの表現を使う)」さんという女性がボクを奥に、左右に座敷があって、そまた奥の座敷に上がる。
 薄暗い座敷で、明かり取りの障子に照明が余計に暗さを演出しているかのようだ。
 そこには塗り物の座卓があり、楊枝や山椒と、「御献立」がある。

 目差すもの「櫃まぶし」(2200円)をお願いしてぽつねんと間を持てあます。

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 この時間に絶えられなくなってビールを追加。
 猛暑のなかを汗みずくになって歩き回って、このビールがうますぎる。
 待つこと10分ほどして「櫃まぶし」がやってくる。
 「櫃まぶし」とは当たり前だけど“櫃に入っている”、“うな重構造の上に刻んだウナギの蒲焼きがのっている”、“ウナギは地焼き(蒸さない)”、“海苔が散らしてある”というのが基本であるらしい。
 そして「仲居さん」から説明を受ける。
「最初の一ぱい目は、このままで、二はい目は薬味(ねぎとワサビ)をのせて、三ばい目はお茶漬けで食べてください」

 ここで、今度は『以ば昇』の基本的な情報を書いておく。
 参考文献は『月刊 サライ』1992年3月5日号。
 創業は明治41年。
 何代か前の木村市三郎が「櫃まぶし」を終戦後に考案した。
 【その当時、ウナギの養殖は始まったばかり、養殖天然などウナギの質にバラツキがあった】
 【このばらついたウナギを使わないと商売にならないと判断して、蒲焼きにして刻んでしまうというのを考案した】
 これを「名古屋名物にまでしたのが次代の木村次郎」。
 たぶん工夫とは薬味であったり、茶漬けにしたりする、ということだろう。

 『以ば昇』の蒲焼きは頭を落として、長いまま5本ほどを串に刺し、焼く。
 途中蒸しの工程がない地焼きで、蒲焼きの場合は1本を4、5等分に切るのだけど、「櫃まぶし」はもっと細かく刻んでしまう。

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 そのまま茶碗によそおった一ぱい目は香ばしくて、やや甘めのタレなので濃厚なうまさとなっている。
 薬味を加えた二はい目は、この濃厚さを適度に中和してくれる。
 疲れていなければ、間違いなく、そのままの方がうまかったろうけど、今回は薬味ありの方がよかった。
 ただねぎの存在には疑問を感じる。
 ねぎとウナギの蒲焼きの相性、よくないように思うのだけれど。
 むしろワサビがたっぷりと欲しい。
 とどめのお茶漬けだけど、面白い味わいである。
 甘いタレにウナギの脂、そこにねぎとワサビをのせて、煎茶をそそぐ。
 さらさらとウナギの蒲焼きのお吸い物とご飯をかき込んでいる。
 ウナギの蒲焼きでお茶漬けとはうまいものなのだな、という発見がある。
 しかもお茶漬けには地焼きの方がいいに違いない。
 2200円の「櫃まぶし」、思った以上にうまいものであった。
 この値段は安いだろう。

 値段のほどよさも名古屋というところ、名古屋人の優れているところ、美点であると思う。
 ボクは近年名古屋に夢中なのである。

 「櫃まぶし」を食べたら、多少元気がもどってきた。
 もう少し名古屋を歩いてみることに決めたのだ。
 
2008年7月10日
愛知県名古屋市中区錦3-13-22
ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑(いちばぎょかいるいずかん)へ
http://www.zukan-bouz.com/


ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑へ
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 午前6時過ぎからの市場巡り、名古屋の旅は歩いて歩いて、歩き疲れた。
 睡眠時間は2時間ほどだろうか、名古屋中央市場、柳橋市場、そして大須の公設市場を見て11時を回っている、。
 この間、ほとんど歩きっぱなし、とてもこれ以上は歩く気力もなく、大須からタクシーに乗る。

 タクシーを拾うまで熱田にある「蓬莱」に行くべきか栄にある『以ば昇』に行くべきか決めかねていた。
 今回の旅は名古屋ならではの食を求めるというのが目的なので、その締めくくりがウナギ。
 名古屋でウナギと言えば「櫃まぶし」となる。
 タクシーにのった道の側、距離からして、栄に向かう。
 このタクシーの運転手さんが親切で、話好きだった。
「『以ば昇』は、昔からあそこにありまして、子供の頃、(店の前、もしくはあたりで)煙が出てるでしょ、その前で匂いを嗅ぐのがすきでしたねー。それにちょっと贅沢というと、ウナギでしたね」
「櫃まぶしですね」
「いやー、蒲焼きでしたね」

 ここで愛知県尾張地方の話をしておきたい。
 名古屋から木曾川三川周辺はこの国有数の水郷地帯であって、湿地のなかに河川、水路などが縦横に流れていたのだ。
 これが幾多の災害をもたらしたでであろうし、巧みな土木技術を生み出してもいる。
 戦国武将が尾張地方からあまた出たのは、流域で発達した流通・経済であり、この土木技術による。
 さて、ここで食べられていたものは、当然伊勢湾の海の幸もあるだろうけど、それ以上に淡水魚、汽水域の魚貝類だろう。
 尾張地方で食べられている淡水魚は多種多様で、ナマズ、コイ、フナ、タナゴ類、モツゴ、オイカワ、ウグイ、タニシ、イシガイ科の二枚貝、シジミなど数え上げたらきりがなくなる。
 当然、ウナギは淡水・汽水域での魚貝類ではもっとも美味なもの。
 “淡水魚を食べる食文化を持つ地域にウナギ屋が多い”と思えるのだけど、いかがだろう。
 ここでウナギ料理の歴史にも触れたいところだが、簡単に。
 江戸時代最大の幹線道路であった東海道に近い名古屋は、当然ウナギ料理の改良にも先取的であったはずだ。
 特に注目されるのが「ウナギを割くようになった(開くように)」時期。
 もともとウナギはぶつ切りにして串に刺して、そのまま焼いていた。
 それを割く(開く)というのは革新的な技術だったのだ。
 これがどこで開発されたのか、またいつ始まったことなのか、などまだまだ研究の余地はある。
 また様々な説があることも銘記すべきだ。
 ただ漠然とだが「ウナギを割く」というのは江戸時代なかば、また醤油と味醂で甘辛いタレを作ったのも、そのころではないかと思っている。
 ウナギを食べる文化を持っていたこと、幹線道路に近いことで、名古屋は早々とそれを取り入れたに違いない。

 それが証拠にウナギを割く包丁には東京、名古屋、京都、大阪で4種類あるということも挙げられる。
 東京は荒川(現隅田川)から東が古くは水郷地帯であった。
 京都は鴨川があり、琵琶湖が近い。
 大阪は淀川・大和川水系の扇状地帯にあり、ここの湿地がひろがる水郷地帯であった。
 そして尾張地方がある。
●02へ続く。

2008年7月10日
愛知県名古屋市中区錦3-13-22
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