車切りの後に20センチ以上の見事な雄バスの塩焼きが出てくる。
下あごにくっきりと追い星が見える。
背ごしには骨の軟らかな雌を、塩焼きには骨は硬いものの身にうまみのある雄を使う。
たぶん火力の強い熱源で急速に焼き上げたものに違いない。
包丁目を入れた切り口が、きつね色に盛り上がっている。
箸をつける前から、香ばしい旨味をともなった香りが立ち上がってくる。
覚悟はしていたものの、雄バスの小骨の多さ、小骨の硬さはかなりのもの。
その小骨の煩わしさを、厭い忘れるほどに、この塩焼きはうまい。
例えば活けのスズキを焼くと、ときどきこのように絶品となるが、それ以上に独特の風味があってハスはスズキに優る。
身に甘みがあって、皮の香ばしくうまいことは名状しがたい。
二杯酢が添えられていたのだが、初手こそ形ばかり浸したものの、むしろ邪魔にすら思う。
塩焼きを、いつの間にか手づかみで食らっていて、指が塩だらけとなる。
おしぼりで指を拭き、ぬぐっているところに、若い女将さんが、
「ハスを見ませんか?」
呼びに来てくれる。
ついていくと、青いバケツをもって、ご主人が立っている。
のぞき込むと、そこには大振りの雌が1尾。
「車切りにする雌です。これが、なかなか手に入らんのです」
「ちょっと赤いんですね。ふっくら太っているようだし」
「春から、今くらいまでが、いちばんええときですな」
この『やまに』は江戸時代には京都二条城に魚を納めていたという。
それで山に二条城の「二」で屋号となったという。
現在京料理というと、若狭の「ぐじ(アカアマダイ)」やハモなど海魚が有名であるが、本来内陸の都で食べられていた魚は淡水魚が中心であったはず。
フナ、コイなどは琵琶湖からの輸送にも耐えただろうし、イサザ、モロコ、アユなどは加工品として京都に送られたのではないか?
ここで戦国時代に思いを巡らせると、織田信長は尾張の人で、尾張は淡水魚を盛んに食べていたはず。
永禄11年(1568)京を牛耳っていた三好氏を追い落とし入洛したとき、都で食べたのも淡水魚(湖魚)だったのではないだろうか?
三好氏に使えた料理人を召し出し、料理を作らせる。これが水くさくてまずいというので、切れと命令したとの逸話が残る。
この水くさくて薄味だというのは、尾張地方の淡水魚料理、ふなみそや甘煮などに比してのことで、京都・琵琶湖周辺の淡水魚料理の薄味であったことを言っているに違いないのだ。
この料理人は信長好みの料理を作り直して許される。
閑話休題。
塩焼きの後には魚田がきた。
2008年7月21日
滋賀県米原市世継736
ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑、ハス
http://www.zukan-bouz.com/koimoku/danio/hasu.html
ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑(いちばぎょかいるいずかん)へ
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参考/『湖魚と近江のくらし』(滋賀の食事文化研究会編 サンライズ出版)
ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑へ
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